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日本酒造りというと、地方で冬の寒い中、時には夜を徹して行われるというイメージがあるのではないだろうか。ましてや東京近辺で酒造りが行われていることを知っている人は多くないはずだ。しかし、首都圏にもいくつか酒蔵はあり、中でも神奈川県海老名市にある泉橋酒造は地元で自ら作った米で酒を醸している希少な蔵元。酒造業も長引くコロナ禍の影響を受け、この1年以上苦しみの中にある。この間、どのように酒造りを続けてきたのか、米からの酒造りにはどういう意味があるのかについて伺った。
コロナ禍で業績に多大な痛手を被ったのは、飲食業、観光業界だけではない。飲食店、宿泊施設に食材・飲料などを供給するメーカーも同様だ。酒は個人での消費ももちろんあるが、やはり圧倒的に飲食店での消費が大きい。
「コロナ禍は正直、大変でした。昨年4月に始まった緊急事態宣言発出で、月の売り上げは半分に。でも、たまたま3年ぐらい前から設備を揃えていた甘酒・焼酎を造って発売し、5月には消毒用のアルコールが足りないというのでそれも造りました。日本酒以外の商品が増えたことで飲食店以外の、今までお付き合いのなかったスーパーなどの販売チャネルが広がったので売り上げは持ち直しましたが、それでも10月からの新酒の仕込みは25%減らしました。いろいろ新しいことに取り組んで、何とか昨年は凌いだという感じですが、今年に入って度々出される緊急事態宣言と4月から始まった飲食店のアルコール提供自粛要請は特に堪えています」
と語るのは、160年余続く神奈川県の酒蔵・泉橋酒造の6代目蔵元・橋場友一さんだ。
酒造があるのは神奈川県海老名市。新宿から快速特急で45分余りの海老名駅から車で10分ほど行くと、この季節ちょうど青々とした稲の伸びる田んぼがあたり一面に広がる。泉橋酒造は、その田んぼで米を作り、酒を醸す。「酒造りは米作りから」のコンセプトを象徴するトンボラベルで知られる酒造場。その米作りが、このコロナ禍ではある意味裏目に出てしまったという。
「米は9割が地元のもので、まれに天候不良などでとれないときもありますから、いつも少し多めに在庫しています。コロナ禍が始まった昨年の4月ぐらいから契約する農家さんにも減産をお願いしていましたが、蓋を開けてみれば思ったより減産になっておらず、結果的に年間140トンぐらい使用する米のうち、30トンほど余ってしまいました。この秋にはまたお米を収穫しますので、冷蔵庫に多量に在庫したままでは酒造りの冬を迎えられません。とにかく今あるお米を有効に使おうと思いました。考えていても仕方ありません。とにかく楽しくやろうと」
「楽しく」と口にしてはいるものの、酒蔵を背負って立つ蔵元として、心中は決して穏やかではなかったはずだ。しかし、たまたま3年ほど前から設備投資をするなど甘酒や焼酎を造る設備を準備していたのが功を奏した。満を持して甘酒を造って発売したところ、普段アルコールはあまり飲まないという層にも「いづみ橋の甘酒」を届けることができた。
「泉橋酒造はメーカーですから、酒の卸店や小売店との関係もあって、実はこれまでオンライン・ショップには力を入れて取り組んでいなかったんです。しかし、毎年2月に行っている蔵びらきが開催できなくなったので、オンラインショップを中心に新しい形での“オンライン蔵びらき”を試みるなど、この間はいろいろなことをしてきました」
泉橋酒造は、冒頭で述べたとおり、米作りをする農家としての一面もある。農業は、作物が売れないからと言ってやめるわけにはいかない。水をやらなければ、雑草をとらなければ作物は育たないのだから。つまり、一般的な企業のようにコロナ禍で仕事がないからといって雇用助成金を申請して休むことができないというわけだ。
「でも逆に考えれば、冬だけ季節労働の方を募って酒造りをする蔵元と違って、うちはいつも働いてくれている社員がいるので、焦って短い期間に酒造りをしなくてもいいんです」
これには少し説明が必要かも知れない。今ではだいぶ変わってきたが、酒造りの伝統として、冬の間だけ酒蔵に入って酒造りに従事する人という存在があった。リーダーとなって造りの中枢を担う「杜氏」もいわゆる季節労働者だったのである。そこでコロナ禍のため、生産量を減らさざるを得ない状況を逆手に取って、泉橋酒蔵では「小さな酒造り」に取り組んだのだそうだ。
余った米は玄米のままでは場所を取るので55%まで磨いて精米した状態で保存することにした。一部は9月末まで「酒米クッキング・キャンペーン」と称して、オンラインショップで一定額以上を購入のユーザーにプレゼントしている。
「今、小さい設備で少量生産する“クラフト○○”というものが流行っていますよね。うちでもそのような“小さい酒造り”を試すことができるんじゃないかと思いました。幸い、3年前から準備していた甘酒の製造の準備がここでも役立ったわけです。日本酒はなぜ冬に造るかというと、低温であることが条件だからです。夏に造ろうと思ったら大規模な冷房設備などが必要になりますが、うちのような古い建物に取り入れるのは不可能。でも、小さい設備なら場所を造ってエアコンを導入し、こんな気温が高い夏にも酒造りはできます。なので、今までやりたくてもできなかったような酒造りにいろいろ挑戦しています」
2011年に登録された酒蔵好適米「楽風舞」は、比較的新しい品種で、泉橋酒造で使っている酒は多い
小さい設備での日本酒造りで実現したのは、某百貨店とのコラボ商品や、提携農家以外からの持ち込みの米による酒造り。いろいろ説明してしまうと、泉橋ファンには待つ楽しみがなくなってしまうかも知れないが、焼酎には当たり前の「白麹」を使った日本酒造りが現在進行中だという。
コロナ禍の打撃をもろに受けている酒蔵の蔵元という立場でありながら、この決して楽ではなかったはずの1年半を淡々と語る橋場氏の姿には、転んでもただでは起きないという、強い信念が窺える。それは、老舗酒蔵の6代目として、幼い頃から帝王学を授けられてきた賜なのだろうか。
「子どもの頃から、この酒蔵をお前が継ぐんだという空気はすごくあって、それがイヤでした。反抗期の中学・高校時代は“ふざけるな、絶対に家を出てやる!”と、ずっと思っていたんです。だから、親の望まない大学を受験しようとして、合格してもいないのに大喧嘩。結果的にその大学には落ちて、項垂れて帰って来たのを親は笑って見ていましたね」
とはいえ、橋場氏が家を継ぐのは決められていたこと。大学を卒業したのちいったん証券会社に就職し、ほどなくして家に戻るつもりではあったが、なかなか退職の踏ん切りがつかなかったそうだ。そんな氏の背中を押したのが、1995年の阪神淡路大震災。その頃、とにかく家から遠く離れたい一心で大阪に勤務していた橋場氏は、尋常ではない被害を目の当たりにして「やるべきことは今やらないとまずい」と思ったのだという。
1995年は、米の買い上げ、売り渡し、供給について細かく定めた「食糧管理法」が廃止された年でもある。それまで酒蔵は酒造りのための米を必ず農協を通して買わなければいけなかったのだが、その規制が緩和されたのだ。
「実は僕は、大学で酒造りの業界のことを勉強していました。法律についても調べていたので、食糧管理法がなくなったと聞いて、ピンときたんです。そうか、農家さんから米を直接買える。いや、待てよ? ということは、うちで作っている米で酒が造れるじゃないかと」
前年には造り酒屋を舞台に、日本の米・農業問題を取り上げた漫画「夏子の酒」のドラマ化で、社会的に日本酒造りへの関心も高まっていた時期でもあった。橋場氏は実家に帰り、酒のための米作りに本格的に取り組むことになる。
「同じ頃に結婚した妻が嫁入り道具に持ってきた漫画『夏子の酒』が、そのまま地元の農家さんたちと共同で行う米作りのマニュアルになりました。協力すると言ってくれた農家さんたちは、米が生計の中心ではなく、トマトや胡瓜、キャベツを作りながら米も一部では作っていたという状態です。そういう方たちと『相模酒米研究会』というものを立ち上げて、勉強・実験をしながら酒米を作っていきました」
日本酒の原料となる米は、実は私たちが普段食用にしている米とは異なる(最近はあえて食用米を使っている日本酒もたまに見かけるが)。雑味の原因となるたんぱく質の含有量が少なく、「酒米の王者」と言われる「山田錦」という米は、丈が1.3mほどにもなる。良い酒を醸すための米は、食用の米とは育て方も当然異なり、そこにはいろいろな苦労があったに違いない。
酒米作りを始めた当初、橋場家が持っていた田は0.5ha。それが今では酒蔵として耕作する8haに提携農家の田を合わせると46haにもなる
「ほとんどの人は神奈川に酒蔵があることを知らないですし、まして米作り、農業をしている人がいるの? ぐらいの感覚です。それをまずリセットして貰うことが必要でした。そして、自分たちで作った米で酒を造ることの意義もみんなで共有しなければなりません。そんな時にこれだ! と思ったのは、フランスワインの“テロワール”という考え方。つまり『固有のブドウ畑で作ったワインは特有の個性を表す』という理論で、泉橋酒造もここで作った米じゃなくちゃだめなんだ。誰が作ったかわかる米で酒を造ろうという考えに至ったんです」
最初は、田んぼによって味も品質もバラバラで、働いてもらっていた杜氏にできた米を「山田錦」ではなく「海老名錦」と呼ばれていたと橋場氏は苦笑する。しかし、自分で米を作ることのメリットは、造った酒の味わいから得た感覚を田んぼにフィードバックできることだった。何年もかけて試行錯誤することにより、酒造りはよい酒米作りがあってこその重要性を実感することになったのだという。
「実は、酒米作りを始めるにあたって、地域の歴史や土壌の調査などをしてみたら、ここは2000年ぐらい前から田んぼだったということがわかりました。うちはその長い歴史の中でたった160年前に登場した酒蔵に過ぎません。持っている田んぼには大小がありますが、大きくても小さくてもやることは同じ。会社としてはこの土地の農業を守っていくのが使命、一丁目一番地ですから、そこだけはブレさせないようにと社員にはいつも言っています」
泉橋酒造で働きたいと集まってくる社員には、精米をやりたいと言う人、大学で農業を勉強したから農業ができる泉橋酒造にと言う人、理由はさまざまだが、皆この海老名が、泉橋酒造が好きであることは間違いないようだ。
「今米作りは、田んぼの作業状況や米の品質などをクラウドで管理する時代です。そういう意味でITに馴染みのある若い人には向いている仕事だと思います。今、小さい酒造りに取り組んでいる社員たちには、こういった状況だからこそチャレンジし、定石を覆すようなもっとぶっ飛んだ酒を造って欲しいですね」
(まとめ)
蔵元の仕事は、コロナ禍でなくても日々ストレスが多いと思うが、そんな中で橋場氏の癒やしとなるのは飼い犬なのだそうだ。保護犬を飼うようになって、病院などで人々に寄り添い、不安やストレスを和らげる活動をするファシリティドッグの支援も始めたのだという。昨年はチャリティのために、オリジナルラベルをつけたお酒の販売も行った。そのせいで(?)ゴールデンウィークは夫人と一緒にラベル貼りで明け暮れてしまったそうだが、「転んでもただでは起きない」の精神で、なんにでも前向きに取り組まれる姿勢に感銘を受けた。
【取材・文:定家励子(株式会社imago)】
【写真:吉永和久】