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壁にぶちあたったらWhyとBecauseで切り抜け、とにかく続けること

料理研究家 上田淳子

マスコミはもちろんのことSNSなどでも人気の料理研究家。テレビの料理番組でよく顔を見る人から、たとえば時短料理やダイエット料理など細かい分野で活躍している人までバラエティに富んでいる。バラエティと言えば、赤ちゃんの離乳食から子供のお弁当、そして専門的なフランス料理までひとりで幅広くカバーしている上田淳子さんは稀有な存在と言えるだろう。間もなく社会人になる双子の母親でもある上田さんはどのようにして料理研究家としての道を歩み、活躍の分野を広げてきたのか、これまでの軌跡について伺った。

鉄棒より食べ物の思い出が鮮明。食いしん坊だった子供時代

コロナ禍に明け暮れた2020年、料理研究家の上田淳子さんの料理書籍刊行点数は6冊。年間で数えると一番多い年になったのだそうだ。『おかずチャートで迷わない! 即決! 晩ごはん』(学研プラス刊)といった家庭料理のお助け本から、『フランス人が愉しむ3つの前菜。』(誠文堂新光社刊)というような美味しいものを自分で作って食べたい料理好き向け、そしてパサつきがちな素材もしっとり美味しく食べられる画期的な手法を紹介した『おいしくなって保存もきく! 塩糖水漬けレシピ』(世界文化社刊)など、さまざまなテーマが並ぶ。このラインナップを見ただけでも上田さんは押しも押されもしない「料理研究家」であることは明白だが、若い頃、自分の進路を考えていた当初は、料理研究家になど自分はなれないと思っていたのだそうだ。

「子供の頃は、鉄棒ができたできないといった思い出より、何を食べた、何を食べ損ねたという記憶の方が多い“食いしん坊”でした。両親が共働きだったので、おやつなどを食べたかったら自分で作るしかなかったんです。友達のお母さんに聞いてクッキーを焼いたら黒焦げにしてしまったり。作っては失敗しを繰り返していたんですが、不思議と嫌にはならなかった。愛読書は『セブンティーン』ではなくてNHKの番組テキストの『きょうの料理』でしたから、やっぱりずっと料理が好きだったんですね」

短大を卒業して料理に関わる仕事をしたいと調理師の専門学校に進むのだが、当時料理を生業とするには選択肢は3つだったのだという。学校の家庭科の先生かクッキングスクールの先生、そして最後が料理人。

「当時料理研究家というのは、きちんとしたお家のお嬢さんや外交官の奥様などしかなれない職業で、一介の料理好きがなれる時代ではなかったんです。それで3つの選択肢の中で、先生になるのは違うなと思って料理人になろう、本当のフランス料理を知ろうと調理師学校に行きました」

しかし、念願の料理を学んだものの、卒業時、上田さんの前に大きな壁が立ちはだかる。どんなレストラン、どんな料理店からも軒並み門前払いを食らうことになるのだ。女子というだけで何しにきたんだ?という顔をされ、厨房どころかサービスの仕事も無理。クロークだったらいいけれど…とまで言われる始末。

「しょうがなく学校に職員として残ることにしました。何年かやっていればいつかここで教師になるという道もあるかなと思ったんですが、やっぱり甘かったですね。いつまでも助手の助手扱いで、お茶出しや職員室の掃除などの仕事としてやっていました。ただ、今考えてみれば良かったと思うこともあって、調理師学校では学生の頃もそうですが、基本全ての料理を身に着けることができたこと。和洋中、お菓子、製パンまで何でも。職員としても毎月交替でいろんな分野の助手を務めたので着実に自分の力にしていくことができました

フランスへ“逃げる”

学校職員として3年勤めた頃、上田さんに転機が訪れる。このまま5年、10年学校にいても、自分は何者にもなれないのではないかと思い始めるようになったのだ。

「そして、フランスに逃げたんです。フランス料理をやりたかったんだから、とにかく現地へ行って知れるだけのことを知って帰ってこようと。自分を女性だからと見下す周囲の人たちの中には、フランスでは○○らしいよとか、本にはこう書いてあるよなど、自分では見ていないのに見てきたように言っている人たちがいたんです。それはちょっと嘘つきじゃない? って思って(笑)。だから、他の人が持っていないものを身に着けてこようと思いました」

まず上田さんは、夏期休暇に何度もアルバイトに行っていた懇意の長野・安曇村のペンションを頼り、そこから研修生として同村の姉妹村になっているスイスのグリンデルヴァルト村のホテルに派遣してもらう機会を手に入れ、片道切符でまずはスイスに渡る。

「そこは山の観光地にあるこぢんまりとしたホテルでしたが、女性だから外国人だからということはではなく、仕事ができるかできないかで判断される、居心地のいい場所でした。ただ、ドイツ語圏のエリアだったのでこのままだとソーセージとジャガイモだけで終わっちゃうなと思って、1年弱滞在の後、満を持してフランスへ行きました」

フランスではまず友人宅に転がり込んで語学学校に通い、さまざまな伝手を辿ってレストラン、シャルキュトリーを渡り歩く。それらはほとんど、知り合いができた日本人コミュニティからの紹介だったのだそうだ。あるレストランで人を探しているとか、自分が辞めるから誰か代わりに入らないかとか、情報が入ってくる。そうこうしているうちに海外生活も3年がたった。

「泥棒に遭ったり、アジア人だということで差別を受けたり、もちろん嫌なことはありましたが、本当に行って良かったと思います。ハチミツにこんなに種類があるのかとか、お酢にこんな使い方があるのかとか、日本では知り得ないことをたくさん知ることができたから。日本にいたら何でもない3年間になってしまったと思いますが、今につながるとっても貴重な時間でした」

離乳食からはじまった料理研究家としての人生

帰国した上田さんは、お世話になった長野のペンションで半年ほど料理人を務めた後、今度は東京に。調理師学校時代の友人のところに遊びに行くと、彼女のおばさんが小さな喫茶店のような店を経営していて、ケーキを作ってショーケースを満たしてくれる人を探していると聞く。

「ここで学生時代の経験が活かされるんです。ケーキ作りも習っていたし、フランスでもケーキを作ったことがあったので。フランス仕込みのガトー・ショコラを作ったらそれなりに評判になって顧客もつき、取材を受けたりタウン誌に紹介されたりもしました」

しかし、ここで終わらないのが上田さんの上田さんらしいところと言えるのかも知れない。立ち止まらず常に動いていたいタイプなのだ。お菓子作りは夕方で終わる、その後の余暇をワインスクールでの勉強や、知人に頼まれての料理教室の時間にあてることになる。

「たとえばケーキ作りは、毎日毎日同じスポンジを焼いたり、レストランの料理人も毎日同じ料理を作り続けるわけです。ケーキ作りをしているうちに、自分は毎日同じことをやるのは向いてないなと思いました。そういう意味では、料理教室を始められたのはとってもよかった。毎月違うことができるし、生徒のグループもいくつかあって、教えるのは楽しいなと思えたんです。教える種が見つかり、芽が出たなと思ったところで結婚し、双子が生まれました(笑)」

双子の子育ての大変さは、想像以上のものだったという。生後5ヵ月ぐらいで首が据わって、そろそろ料理教室を再開できるかなと思ったら、元気な男の子ふたりは今度は立ち上がって走り出し、それどころじゃなかったそうだ。しかし、そこでまた救世主が現れる。

「長く通ってきてくれていた料理教室の生徒さんが、“私、会社辞めたんで子守りにきましょうか?”と言ってくれたんです。ありがたかったです。彼女がいなかったら、料理教室を再開できていませんでしたから」

自分のためではなく、誰かのための料理を

上田さんは、自分を止まっていられない人間だという。結婚した当初、意地悪な人からは「シェフじゃなくて、主婦になったんだね」などと揶揄されたそうだが、とにかくやめない、とにかく続けようと行動してきた。

人生はフルマラソンだと思ってます。お腹が空いたらバナナを食べても良いし、歩いたりしゃがんだりしてもいい。そしてまた立ち上がれば周囲が着いてきてくれるし、必ず何かありますから。でも一旦やめちゃったら、再び始めるのは時間がかかるしパワーも必要だから大変です。好きなことをみつけたら、とにかくやめないこと。それがいろいろなことに繋がっていくのだと思います」

そんな上田さんの今のような料理研究家としての活動の端緒は、幼い子供の食事にあった。料理教室のメンバーに出版社の編集者がいて、その伝手で育児雑誌に離乳食の作り方の企画を出したら見事に通り、連載が始まったのだ。

「フランス料理ならできるけど、離乳食の“り”の字も知らない元料理人の双子母の悪戦苦闘です(笑)。その連載が1年ぐらい続くと、離乳食関連の企画が他にもぽつぽつと入るようになり、子供の成長に伴って今度はおやつやお弁当の企画が。いつの間にかフランス料理はどこかに行ってしまいましたが、子育て料理研究家として、料理研究家人生を走り始めることができました。」

上田さんの料理研究家としての強みは、その引き出しの多さだ。冒頭にも述べたがテーマの広さは、子育てや遠くに住む親への思いなど、さまざまな経験に裏打ちされている。冷凍・冷蔵して送り、電子レンジでチンするだけで食べられる料理レシピを集めた『冷凍お届けごはん 離れている家族に』(講談社)などは、その最たるものだろう。

私にとって料理は、自分のために作るものではなくて、誰かのために作るものなんです。誰かがいるからこれを作ろうとか、誰かのために何を作ってあげようかとか。本も同様で、料理で困っている人がいるならば、どうやって解決できるかを考える。相手がいるからなんですよ」

若い頃は料理研究家になりたくてもなれないと思っていた上田さん。しかし、諦めずに行動を続け経験を積むうちに、周囲に認められ料理研究家を名乗りさまざまな著書、実績を残してきた。

「私の人生の中では、ずっとWhyとBecauseが繰り返されてきたように思います。なぜできないのか? それはこういう理由だ。じゃあ、こうしようと。調理師学校の職員もただ辞めるのではなく、理由を考え、じゃあフランスに行ってみようと思ったわけで、常に考え行動することで次へのステップを踏み出すことができるんじゃないかと思います」

子供が幼い頃はトイレに行くのさえ大変だったと語る上田さん。その双子の息子たちも間もなく社会人として家を出て行くだろう。そんな時を迎えて考える次のステップはもう頭の中にあるのだという。

「自分のライフワークとしての料理教室はこれからも続けていきますが、柔軟な考えを持つ若い人たちに、またどうしたらいいかと困っている人たちの手助けをしていきたいと考えています。男女問わず国籍問わず、若い人たちに教わるぐらいのつもりで関わっていくと人生面白いだろうなと思って」

 

(まとめ)

壁にぶちあたっても決して諦めなかった人生。諦めなかったからこそ、すべてが繋がっていった。WhyとBecauseでも切り抜けられそうにない局面はあったのではないだろうか。時にはどん底まで落ち込むことも。「もうだめだ! そう感じたときは、今が一番底だと思うようにしています。ここが最底辺なんだから、あとは上がるだけだと自分を励ますんです」。その言葉がとても印象的だった。なかなか自由に行動できない日々が続いているが、上田さんのレシピで美味しいものを作って食べ、なんとか乗り切っていきたいと思う。

【取材・文:定家励子(株式会社imago)】

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